Profile
プロフィール

心春(koharu)
初めまして♪私の人生は「失敗」と「恥」と「後悔」の連続でした。でもあの経験がなかったら、今、私の思う人生を歩めてなかっただろうな…と思うんです。私たちの思う失敗は、魂にとっては大きな成長。恥や後悔は、明日への活力。人生で無駄な経験は一つもありませんでした。大切なのは「これからのあなた♡」です。今、あなたが抱えているお悩みも、この先の目標が定まると、波動が高まり、対人関係や物事が良好に変化していきます。あなたがあなたらしく、輝きながら歩み続けていけますように…♪心から応援していきます(^^)
得意な相談
人間関係全般、HSP、発達障害、恋愛依存・共依存、DV・モラハラ
カウンセリング方法
ビデオ通話、音声通話
ストーリー
夫との出会い
元夫は、頭脳明晰で効率的な人でした。
物事の考え方や捉え方に無駄がなく、大きな努力をしなくても結果を出せる人。
一方で、他人への興味や共感がほとんどなく、人間関係で悩むことが一度もないという、非常に個性的な人でもありました。
出会った当時の私は、仕事が生き甲斐で、積極的に日常を切り拓く努力をしてはいましたが……
人間関係や多くの悩みをいつも抱えやすく、疲弊している日々でももありました。
周りに気を遣いすぎて、相手の顔色や気分に自分の気持ちを合わせてしまう。
笑顔を見せつつも、感情がどうしても振り回されてしまうのです。
積極的なのに消極的。
外交的なのに内向的。
アクセルとブレーキを同時に踏んで生きているような感覚で、生きづらさを抱えていました。
後にHSP(Highly Sensitive Person)の気質が内側にあるとわかった私は、人と関わること自体は好きでも、多くの刺激を受けすぎてエネルギーを消耗し、打ちのめされやすい自分に気づきました。
そんな私にとって、淡々と自分らしく生きる元夫の姿は、とても楽そうで、眩しく映っていたのだと思います。
この出会いには、私の生まれ育った家庭環境が深く影響していたのだと、今では感じています。
生まれ育った環境
私は、自然豊かな茨城の田舎に生まれました。
両親は、先祖代々の土地を守るため、跡取りとなる男の子の誕生を心待ちにしていました。
しかし、生まれてきたのは次女の私…また女の子。
その時の両親の失望は、幼い私にもはっきりと伝わってきました。
3年後、弟が生まれたことで、それが単なる予感ではなく現実のものとなり、
私の中に芽生えた向上心は、次第に劣等感へと変わっていきました。
かつては明るい性格だった私ですが、いつの間にか自信を失い、愛されている実感を抱けなくなっていったのです。
そして、私の家庭には、父の暴力という大変暗い影があったのです。
父が母に向ける暴言や暴力は日常的で、幼かった私には、それが深い心の傷となりました。
私はいつも父の顔色を伺い、父の怒鳴り声に怯え、ビクビクしながら毎日を過ごしていました。
少しの物音や言葉にも敏感に反応し、常に緊張状態で心の休まる日などほとんどありません。
母が父の暴力を受けないようにと、私は幼いながらに父の機嫌を見ては、家庭内の平穏を保とうと努めていました。
しかし、私を産み育ててくれた大切な母が、目の前で殴られ、蹴られる姿を見続けるという苦しみは、言葉では言い尽くせないほどの痛みをもたらしました。
飛び交う罵声と怒声、家族の悲鳴……。
その体験は、幼かった私の心に深く刻まれ、やがて私の人生そのものに大きな影響を及ぼすこととなったのです。
壊れていった私
母は家庭内の暴力を隠し、学校には口外しないよう頼みました。
守ろうとするのは子供の心ではなく、世間体。
母への矛盾を感じながらも、暴力を止められない自分の無力さに苦しみ、何事にもやる気を失っていきました。
授業中、その記憶がよぎるたび涙が溢れ、心が休まる場所はどこにもありません。
両親は男子の誕生以外、子供の教育に無関心で、出来ないことだけを指摘し、伸ばそうという発想はありません。
私は孤独を感じながらも、学校では笑顔を絶やさず、周囲に合わせて過ごしました。
自分には取り柄がないと思い込み、自己主張もできず、自分より相手を優先し、嫌われないよう振る舞うことで、自分の居場所を確保していたのです。
そのせいか、よく友達から悩みごとの相談を受けていました。
大人数は苦手でも、静かに人と語り合える時間は好きで、それは私にとっても心が癒される時間でした。
もし心が安定していたら、誇りに感じそのまま真っ直ぐ歩んでいけたのかも知れない……。
けれど子供だった私には、いつも人に与えるだけの、寂しい関係だとも思えていたのです。
同級生とどこか対等になれない、皆のように自分の気持ちを上手く伝えられない、皆のように人に甘えられない……。
合わせるだけなので、意地悪な人からは、度々いじられる。
それに深く傷つきながらも、摩擦を恐れて言い返すことが出来ない。
家庭内暴力への日々の恐怖と我慢、母を守れない無力さ、父への憎しみ、学校でも感情を抑え続けた日々にもう限界……。
私は無力な自分を嫌い、自己価値を全く感じられず、自分を完全に見失い、高校時代に非行を何度も繰り返しました。
父と喧嘩をする度に家を飛び出し、派手な服や化粧で自分を偽り、誰に対しても笑顔を見せないようにしました。
暴力は暴力をうみ、心が荒み、表情も言動も全てが壊れていく。
あの頃、「これが本当の私」「私なんてこの程度」といつも自分を否定し、「いつまで生きていたらいいんだろう」と生きる意味も見失っていました。
壊れてしまった私は人生の迷い子だったのです。
人生の転機
18歳の時、私はバスガイドになるため家を出て寮生活を始めました。
人と話すことや笑うこと、歌うことが、本来は好きだった私にとって、この仕事は大きな挑戦であり喜びでした。
初めての暴力がない穏やかな環境……。
朝が早く厳しい業務に、同期が辞めていく中、私は心の安定と仕事の躍動感に魅了されていました。
初乗務から半年が経つ頃には、新人ながらご指名をいただけるようになり、「認められる」「必要とされる」という生まれて初めての喜びを知りました。
この経験が、生きる力を心の底から沸き立たせ、自分を受け入れる大切さを教えてくれたのです。
人から受け入れていただく事で、自分の中の本当のプライドが育つ。
その後も努力を惜しまず、バスガイドとしての勉強を続けながら、旅行業の国家資格を取得。
過去の自分を取り戻すかのように、私は自分を大切にし毎日を懸命に生き始めました。
より広い世界を見たいという思いから、3年後に旅行業界へ転職しました。
仕事を通じて得た経験と喜びが、私の生きる原動力となったのです。
結婚も山あり谷あり……
旅行会社で働き始めた私は、新しい環境に刺激を受け、日々新鮮な気持ちで仕事に取り組んでいました。
常に生きづらさは感じながらも、幼い頃の自分とは違い、積極的に日常を切り拓いていました。
そんな中、8年の月日が流れ、職場で元夫と出会い、結婚に至りました。
結婚生活は娘と息子に恵まれ、一見「普通の家庭」を築いたかのように見えましたが、現実は違いました。
彼の異常性に気付いたのは少しあとのことでした。
結婚前に借金がないと確認していたにも関わらず、督促状が届き、取り立ての電話が頻繁にかかる。
問いただすと「何かの間違い」「無視しておけばいい」と言い、さらに感情的になれば、暴力も何度もありました。
「頭がおかしいから精神病院に行ってこい」「それ以上言うなら殺す」など、耳を疑うような言葉が飛び交いました。
私は父と正反対で、物静かで高学歴、効率的で人に干渉せず、自分らしく上手に人生を歩んでいる彼を選んだつもりでした。
しかし、彼は大人としての話し合いができず、自己中心的で他者の感情を理解出来ない人でした。
子どもと遊んでいるように見えたのも、実際は自分が楽しんでいるだけだったと後に知りました。
また、お酒を浴びるように飲み、浮気を隠すどころか自慢するような振る舞いにも、呆れ返り失望を重ねました。
結婚から10年後、彼は大学病院で発達障害(アスペルガー症候群)と診断されました。
ただし、この症状のすべてが原因ではなく、多くは彼自身の性格や個性の問題です。
義両親に相談しても解決には繋がらず、むしろ私が悪者扱いされる結果となりました。
結婚前に彼が私の個性を都合よく作り上げ、それを義両親に伝えていたことも誤解の根本原因で、正すのに大変な苦労をしました。
このような状況の中、私を支えてくれたのは子ども達の存在でした。
彼らを守り、私と同じような悲しい思いをさせないと心に誓い、どんな困難にも前を向いて生きる力を得ていきました。
独学で、宅地建物取引主任者資格を取得。
不動産会社に就職し、家族のために必死に働いていたあの頃……。
子育てで一番辛かったこと
娘は高校入学から1か月後、初めてのいじめを受け不登校になりました。
私はこれまで、娘に自分と同じような苦しみを味わわせないように、愛情を注ぎながら、厳しく正しく育ててきたつもりでした。
明るく活発だった娘の笑顔は消え、日常は一変してしまい、不安と悲しみに包まれた日々が始まりました。
いじめの理由については、学校側も加害者グループに問題があることを認め、娘をクラスに戻そうと努力してくれました。
しかし、心に深い傷を負った娘がすぐに立ち直るのは難しく、私自身も再びその環境に戻すのには大きな不安が……。
転校も視野に入れ、他校を探すことを真剣に検討するほど、この問題が頭から離れず、毎日がそのことでいっぱいです。
娘の精神状態が不安定であるため、仕事では遅刻や早退が続き、結果として休職することになりました。
子供の成長だけが支えだった私にとって、生きていく力を奪われるような出来事でした。
娘のことで以前から気になっていたことは、どんなに注意をしても、朝起きられない、忘れ物が多い、部屋を片付けられない、物事の段取りがつけられない等、生活面での困難が多かったこと。
一方で学力や身体能力は高く、周囲から褒められる事が多かった娘は、私にとって掴みどころがなく、長年育てにくい子だと感じていました。
診療内科で、娘がADHD(注意欠陥)と診断された時、これまで厳しく育ててきた私の教育は、娘にとっては、虐待と同然だったのではないかと気付き、とても申し訳なく、不登校も重なり何度も自分を責めました。
その頃、イジメの主犯格が孤立する出来事が起きたことをきっかけに、なんとか復学が出来、自分の個性を受け入れながら、クラスに馴染み、猛勉強の末、志望校以上の大学に合格する事が出来ました。
ホッした頃、私は自分の体調不良にやっと気が付き、病院で鬱病と診断をされました。
治療と、HSE(外交的hsp)に関するセミナーや、講演会へ積極的に参加をし、自己理解を深めることで、これまでの生き方を見直し、克服することが出来てきました。
夫との別れ
娘が20歳を迎える頃、私は35年ぶりにバドミントンを再開しました。
体を動かすことで心身の健康を取り戻し、自分らしい時間を過ごせるようになっていきました。
夫はその頃、体調を崩す事が増えある日、強い胃の痛みを訴え救急車で運ばれました。
すい臓癌でした。
手術は受けられましたが、予後が悪く、約2年後に亡くなってしまったのです。
個性的で、独特な感性を持った人でしたが、癌になる数年前から、何かを悟ったかのように改心し、家族思いの温かな面を少しずつ見せてくれるようになっていたのです。
亡くなる前まで、辛い体で「家族のために」と仕事にも向かってくれていました。
私が今こうして前を向けるのも、夫のその思いと優しさを、最後は心から感じる事が出来たからなのだと思います。
長年、共に暮らしてきた家族が亡くなるということは、分かってはいても、なかなか実感が沸かないもので、今でも玄関から「ただいま~」といつもの声が聞こえてくるような気がしています。
子供たちも成人し、一人の時間に戻った私は、「いろいろな事があったな…」「陰で泣いてばかりだった。」「でもこれで良かった、そのお陰で人の心の痛みが分かる人になれたから…」と振り返っています。
夫との別れは、特に大きな出来事で、私にとって後悔も含め多くの学びとなりました。
今日という日は、残された人生の大切な一日だということ。
人の命は有限です。
それならば、自分の心が喜ぶことに積極的に向かってみるのはいかがでしょうか……。
カウンセラーとして、活動をしていきたいと思うようになったのも、私自身の多くの経験からでした。
人は心が癒されないと、前に進むことが出来ません。
生きることに対する怖れや不安を手放し、これからのあなたが、明るく前を向いて過ごしていけますことを願っております。
最後までお読みいただきまして、本当にありがとうございました。
私の心地がよくなる時間
①親友とのおしゃべり
②コーヒーとケーキのカフェタイム
③ホットヨガ
④バドミントン
⑤海を見ること
あなたの心地がよくなる時間はどんな時ですか……?
毎日を機嫌よく過ごせると、波動が高まり幸せの数が増えていきます♪
あなたにとって、昨日より今日、今日より明日が、穏やかで幸せなお時間でありますように……(^^*)
資格
- 自己肯定感アップカウンセラー
- 介護職員初任(旧ヘルパー2級)
- 特別支援学校(スクールバス添乗員)
キャリア
- 家庭内暴力のある家に生まれる
- 子供の頃から、悩みごとを受ける機会に恵まれる。
- 高校時代、父のいる家庭に耐えられず、家出と非行を繰り返す。
人間関係での悩みが日常的。 - 結婚後、夫の借金、DV、浮気が続く。うつ病になる。
- 自己肯定感アップカウンセラー資格を取得。自己理解を深め克服する。
- ラベル夫がすい臓癌で他界する。
- ラベル現在、子育ても終え一人の私に戻る。自身の経験を活かし、カウンセラー講習を受け、学びながら活動中。